オオサカジン

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2008年12月08日

蛸地蔵伝説

大阪の珍名駅、蛸地蔵は大阪府下ではじめて登録文化財に選ばれた駅。




なんば行き方面の改札をでた所にステンドグラスが
はめ込まれています。
そこには武士が蛸に墨をかけられている絵があります。

なんじゃこりゃ?

と思ったんですがこれが蛸地蔵と言う駅名に由来する
蛸地蔵伝説?の一場面なんだとか。

どんな伝説かというと
昔、駅近くにある「天性寺」に賊軍がお寺を襲いお寺をめちゃくちゃにし、
祀られていたお地蔵さんを斧でたたき壊そうとしました。
木でできていたにもかかわらずお地蔵さんは壊れず、
気持ち悪がった賊はお地蔵さんを海へ捨てました。

それから何年かが経ちある日、チヌの海に大波がおしよせた時、
荒れ狂う海から大たこに乗ったお地蔵さんが
海から出てきて大波が静まった。
殿様はそのお地蔵様のおかげだと城内にお堂を建てて祀ることにした。
しかし、時は戦乱の最中。城に攻め込まれ燃やされては罰当たりだと思い、
お堀の泥の中へ埋めて隠す事にした。

それからまた何年もの歳月が経ち、戦続きのある日、
城内まで攻め込まれるほどの大戦乱となった。
その時、1人の法師が現れて敵を次々と倒していった。
敵軍はこの法師を囲み討ちをしてきた。
と、その時、海から何千何万という蛸が墨をはきながら敵軍を襲い、敵軍は退却した。
あたりを見回すとさっきまでいたはずの法師と蛸は見当たらなかった…

→蛸地蔵の話

とまだまだ話は続くんですがその戦の場面が蛸地蔵駅に飾られているステンドガラスの絵です。

その地蔵は現在駅から徒歩10分の天性寺に祀られており、
秘仏である蛸地蔵尊は毎年8月23日、24日の「千日大法会」でご開帳される。

願掛けの方法も変わっていて1年から3年間、蛸を口にしてはいけないらしいです。

  


Posted by むーさん at 20:29Comments(0)大阪の歴史

2008年09月19日

住吉の浜



「すみよっさん」の愛称で親しまれ、初詣には多くの人でにぎわう住吉大社。



国宝でもある4つの本殿には航海の神様が祀られています。
現在改装中。
海の神様とはいえ海からは離れているのに?と、思ったんですが
昔は住吉大社の太鼓橋から向こうは白砂青松の美しい砂浜が広がっていたそうです。

http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/detail_large.cgi?id=17880010&bval=x&page=34&pagemax=75&syubetu=&mapval=&ancval=&etcval=&syomei=&tyosya=&keyword=&addcity=&reki=&reki_s=&reki_e=&wareki_s=&wareki_e=&wval_s=&wval_e=&sort=&samflg=&dispopt=&nextnum=&refer=http%3A%2F%2Fwww.oml.city.osaka.jp%2Fimage%2Fthemes%2Ftheme749.html&syl=&reflg=3
http://www.s-smuseumnet.com/img_shuzou/img_324_1.jpg


「摂津名所図会」や「浪花百景」などに描かれています。



かつて海に面し灯台の役割を果たしていた高灯籠が住吉公園をぬけた
国道26号線沿いにたっています。
ジェーン台風で木造部分が破壊され昭和49年に200mの東へ移動した
現在の場所に再建されたそうです。




今ではほとんど埋め立てられていますが当時の住吉はこんな感じ。
橋を渡るとすぐ海が見えるということで出見の浜と呼ばれていたそうです。
周辺に住之江や粉浜など海に関する地名が多いのもその為なんですね。

  


Posted by むーさん at 13:54Comments(0)大阪の歴史

2008年07月25日

だいがく祭

西成区玉出の生根神社で行われる商売繁盛、無病息災、家内安全を願う夏祭り
「だいがく祭」が昨日、今日と行われています。




生根神社のだいがく祭の由来は清和天皇の時代、難波の地一帯が干ばつに見舞われた際、
農民たちが日本六十六カ国の一の宮の御神燈と鈴を付けたやりを持ち、
雨乞いの祈願をしたところ大雨が降り、それをよろこんだ農民たちはそのやりに
台座をつけて担ぎ、太鼓を鳴らし巡行したのが始まりとされています。

高さ20mの柱に79個の提灯で飾られた「だいがく」は山車の一種。
戦前は大阪府で数多く見られたそうですが戦災の焼失などにより現存する「だいがく」は
この一基のみとなっています。
大阪府指定有形文化財にも登録されており、7月24日、25日の夏祭りのみ公開されています。

大阪府大阪市西成区玉出西2-1-10
  


Posted by むーさん at 13:58Comments(0)大阪の歴史

2008年03月14日

アメリカ村の由来



アメリカ村。
私が中学生の時にはもうすでにあってそうゆう町名なのかと思っていて、
はじめてアメリカ村に来たときはどこにアメリカ村って書いてるんやろと思って探しました。

実際には西心斎橋1丁目、2丁目付近をアメリカ村というそうです。
なんでアメリカ村なんだろうか。という事で調べてみました。
間違っていたらすいません。

今ではアメ村界隈は西心斎橋という地名ですが昔は炭屋町という町名。
町名の由来は江戸期に四国で作られた炭が大阪湾から道頓堀を遡り
この地に集積されていたことからきています。

昭和初期、炭屋町は倉庫や貸事務所が多くたつ場所だった。
昭和26年、石津謙介さんがアパレルメーカーVANをここ炭屋町に設立。
後、VANの紙袋を持つことが若者のステータスになり、
VANを発端としてアイビールックが社会現象にまでなった。

昭和44年、日限萬理子さんが当時は普通の児童公園であった
三角公園前の貸事務所を借り、カフェLOOPを作る。
当初はVANの社員や近所のおじさんが来る程度だったが
口コミで学生やサーファーなどの若者で賑わうようになり、
サーファー達がアメリカ西海岸で買ってきた古着やレコードなどを置くようにもなった。

その後、三角公園を中心にアメリカに影響を受けた若者たちが
古着ショップや中古レコード店(キングコング等)が次々とオープンし、
1970年代のサーフィンブームで三角公園周辺はますます発展し、
東京や九州方面からも買い物客が訪れるほどになったんだとか。

昭和47年、プレイガイドジャーナル(1971年創刊された大阪発のタウン誌)が
そごう百貨店で開催した「アメリカ村夏の陣」というイベントからアメリカ村という
呼び名が定着していったそうです。

  


Posted by むーさん at 17:09Comments(0)大阪の歴史

2007年05月29日

南海ホークス




なんばパークス内にある南海ホークスギャラリー。

なんばパークス第二期工事にともなって屋上階に移動。
もともとなんばパークスは大阪スタヂアムであり、
南海ホークスはそこをホームグラウンドとしていた。

南海ホークスは、日本プロ野球発足2年後の1938年に
「南海軍」として設立された。
途中、近畿日本やグレート・リングという名を経て
南海ホークスとなった。
当時、南海電鉄が車輪にスピードを表す羽根のついた社章を
使っていたことからホークスになったのだとか。
その後、1988年に南海ホークスは杉浦監督の
行ってまいりますという言葉を最後に大阪をさった。

優勝した際に見るビールかけ、そして優勝パレードは
南海ホークスがはじめたのだそう。
ビールかけは優勝祝賀会で、サディナとカールトン半田が
他の選手に「アメリカ流やー」といってビールをかけたのが
きっかけだそうだ。



またこの南海ホークスのマークを作った人物はメンタームの
看護婦の少女やよくみかける輪ゴム「オーバンド」のデザインを
した今竹七郎という人物ということだ。



  


Posted by むーさん at 14:02Comments(0)大阪の歴史

2007年04月03日

ピースおおさか



ピースおおさかにいってきました。
大阪城公園内にあり、昔、大阪砲兵工廠の診療所があった
場所に建っているそうです。

ピースおおさかでは大阪空襲時の生活や映像など
をはじめ、15年戦争や世界の紛争などを詳しく
知る事のできる場所です。

屋根は色々な形をしています。
これは、平和とは多様なものが相互に認め合って
同時に存在し得る世界である事を表現しているのだとか。



中に入ると1トン爆弾の模型があり、戎橋界隈の
焼跡の模型が床下に埋め込まれています。
ほとんど瓦礫。この空襲で大阪の人口は
わずか8ヶ月で半分になった。



焼け残った1銭なども展示されています。
溶けて固まってしまってます。




3階では戦争中のニュース映画、ドキュメンタリーなど
の映像コーナーや戦争と平和に関する図書室があります。



大阪空襲のことがよくわかる「大阪空襲の夜」など
持ち帰れる資料もあります。
漫画なのでわかりやすいです。

大阪国際平和センター(ピースおおさか)
〒540-0002
大阪市中央区大阪城2番1号 
TEL 06-6947-7208








  


Posted by むーさん at 19:50Comments(0)大阪の歴史

2007年03月20日

大阪で唯一の路面電車



天王寺からはしっている阪堺電気軌道は
大阪唯一の路面電車。

かつては難波や大阪駅前など大阪市街を
走っていましたが車の普及に伴い昭和44年に
全路線がなくなったのだそう。
そして今では天王寺から堺を結ぶ阪堺電車が
残っているだけとなった。

堺市内の路線はなかなか利用者が少ないようで、
廃止が検討されているのだとか。

堺市では、平成22年南海電鉄高野線堺東駅~
同本線堺駅間のLRT(ライト・レール・トランジット)
開業を予定しており最終的には東西8・3kmの
LRTを整備する予定なのだとか。
堺市のLRTとの連携で堺市部分の阪堺電車の
利用を活性されたい考えだ。

また阪堺電車は貸しきる事ができて電車に乗りながら
パーティーなどができるそう。
楽しそうですよね?しかも料金もわりと安い。
一度は貸しきって電車パーティーをしてみたいものです。  


Posted by むーさん at 18:59Comments(0)大阪の歴史

2007年01月18日

松下幸之助 創業の地



地下鉄千日前野田阪神駅を降り、歩いていると
旗のような看板に「この先松下幸之助 創業の地」というような
類の文字がかかれていたのでちょっとあるいて行ってみると
公園があり、こんな石碑がたっていました。

どうやら、この地大開は、松下電器産業株式会社の創業者松下幸之助が
大正7年(1918年)3月7日に、松下電器の前身「松下電器製作所」
を創立した創業の地らしい。
世界中にその名を馳せた松下は23歳の若さで配線器具や販売を
はじめたそう。

こんなところに創業の地があるとは思いませんでしたが
大阪検定では絶対的に松下幸之助のことが出ると思います。

松下幸之助記念館というのがあるらしいのでいってみたいと思います。
松下幸之助記念館  


Posted by むーさん at 14:01Comments(1)大阪の歴史

2006年11月02日

日本最古の橋



大阪、鶴橋。といえばコリアンタウンや焼肉がおいしいという
イメージだが、ここ鶴橋にはかつて橋が架かっていたらしい。
その跡地に『つるのはし跡』の碑が建っている。

つるのはしは、もとの平野川にかけられていたが、
昭和15年に川は埋められ、新平野川に改修されたため廃橋となった。
日本書紀には「冬11月、猪甘の津に橋わたす。すなわちその処を号けて
小橋という」と記されていて、これが日本の架橋の記録として一番古いもの
とされている。猪甘の津とは猪飼野(桃谷3丁目一帯)のことである。
当時の橋の大きさは『猪飼野村明細帳』などの記録によると
橋の全長20間(36.4メートル)幅7尺5寸(2.3メートル)の板橋であるという。

「つるのはし」という名の由来は、江戸時代の『摂陽群談』に「むかし、この辺りに
鶴が多く群れ集まったためという」と記されているそう。
また、「津の橋」が訛ったという一説もある。

  


Posted by むーさん at 19:47Comments(0)大阪の歴史

2006年09月19日

大阪大空襲

1945年(昭和20年)3月13日の23時からの大空襲はなんばから
梅田までみわたせる焼け野が原にするほど脅威的なものであった。

1500~2000メートルの高度で油脂焼夷弾約1700トンが投下され
大阪市の港区、浪速区、南区を中心に街は灰燼に帰した。
翌14日午前3時15分頃まで続き死者4060人、重軽傷18000人、13万世帯
50万人が焼け出された。
その後も終戦直後まで幾度となく空襲が続き、敗戦直後の8月末には244万人
いた人口が111万人になるほどだった。

大阪警察局「大阪府空襲被害状況」は次の通りである。
・被災家屋    344240戸
・被災者    1224533人
・死者        12620人
・重軽傷者     31088人
・行方不明      2173人  


Posted by むーさん at 16:13Comments(0)大阪の歴史